February 17, 2005

芸術鑑賞の2つの方法

芸術鑑賞には2つのやり方があるだろう。
一つは感情移入であり、もうひとつは視覚、聴覚的快感といった五感の快感だ。
絵画を例にして説明しようと思う。


まず感情移入によって魅力が引き出されるアーティストの例としては、
ピカソ、マティス、ベラスケスなどが挙げられる。

絵の場合、感情移入というのはどういうことかというと、
自分がそれを描いている気になるということだ。
頭の中で筆を追い、色を追選択し、
自分がこのような絵を描いているとき、このような線を引いているときには
どんな気分だろうか、と。

このような観点から体験したときに、
ピカソやマティスの魅力は最大限に引き出される。
ごく単純にいえば、ピカソの魅力は造形ではなく描線の自由さだし、
マティスの魅力も色彩ではなく自由さだ。
ピカソの描線は、実物の造形からも、
視覚的に美しく見えるための法則からも自由だ。
だがめちゃくちゃなのではなく、彼の意思にしたがって描かれたものだ。
この意思の自由さが彼の絵の魅力である。
おそらくピカソやマティスの魅力がいまいちつかめないというような人は、
彼らを造形や色彩といった側面からとらえているのではないだろうか。
そのような点は彼らの魅力の本質ではない。
造形や色彩という観点ならほかにもっとおもしろい作家がいるだろう。
たとえばディック・ブルーナなどはマティスの影響下にありながら
色彩や造形による快感を魅力とするアーティストであり、
見た目がマティスに似ているだけに好対照をなすだろう。

ベラスケスの魅力は迫真性そのものではなく、
無造作な描線が迫真性を持っている、ということであり、
これは自他合一感に近い感覚を引き起こす。
つまり、無造作に描くという感覚的行為の結果が
実物という「他者」に一致しているということだ。
これは「描く」という行為を追体験しないことには味わえない魅力だろう。
迫真性だけならもっとあたかも写真のように丁寧に描いた作家がいる。

ほかに感情移入を魅力とする作家の例としては、
フンデルトヴァッサー、高橋由一などが挙げられる。


いっぽう、クリムト、ミュシャ、伊藤若冲などは
もっぱら視覚的快感を魅力とするアーティストだ。

視覚的快感とはたとえば、
見た目がきれい、雰囲気がいい、絵がうまいといったようなことだ。
これらはたとえばデザインを見るときの快感に近い。
このような観点から絵画作品を見ることができない人は少ないだろうから、
多くの説明はいらないだろう。

このようなアーティストの絵からは制作過程が感覚的に掴めないので、
感情移入することは難しい。
おそらく作品と作家のあいだに距離があるのだろう。
そういう意味では職人的と言えるかもしれない。

ダヴィッド、黒田清輝なども視覚的快感を魅力とするアーティストだ。
ゴッホやムンクなどはちょっと自信がないが、たぶんこちらではなかろうか。
ゴッホの描線に感情移入しても不安さは感じられないが、
出来上がったゴッホの絵を見ていると不安さを感じる
(彼は意外と計算して描いてるんじゃなかろうか?)。


音楽でいえば、
感情移入して聴くのはたとえばベートーベンであり、
聴覚的快感を魅力とするのはたとえばモーツァルトだろう。
ベートーベンが悲しい曲を作っているときは、
彼は本当に悲しい気分になって曲を作っているのだ。
モーツァルトが悲しい曲を作っているときには、
単に人を悲しませる曲を作っているにすぎない。


個人的には、感情移入の楽しみのほうが
視聴覚的快感のそれを大きく上回ると思う。
漫画を読んだりしているときはほとんどの人は
感情移入をしているのではないだろうか。
視覚的快感や聴覚的快感はものを単独の対象として鑑賞するには
快感の程度として弱すぎるように思う。

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February 14, 2005

礼儀

他人に礼儀正しくあることを強要したり、
礼儀正しくない人に腹を立てたりするような人は、
礼儀というものを外的抑圧のようなものと考えているのだろう。

彼らにとって礼儀正しくない人というのは、
彼らに課されている抑圧を免れている人なのであり、
彼らはその不当さに腹を立てているのである。

つまり彼らには他者に対して礼儀正しく振る舞う自発的な理由はないのであり、
彼らにとって礼儀というのは自由な行動を制限する障害であるにすぎない。
したがってもし礼儀というものを他者に対する敬意や好意の表現と考えるなら、
彼らは他者に敬意も好意も持っていないのである。

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February 09, 2005

真理について

僕は以前に、真理は合意によって決まると書いた。

「しかしコペルニクスが地動説を唱える前から地球は動いていたが、
その時、あるいはそれ以前にそのような考えに同意していた人は
誰もいなかったではないか?
真理は合意などではなく、実際にどうであるかによって決まるのだ。」

これは一見もっともな指摘に見えるが、僕はこのような考えには賛成しない。
なぜなら、この観点からいえば真理というものは
永遠に判明しないことになってしまうからだ。

このような観点でいえば、
たとえばニュートン力学が信じられていた時代においても量子力学は真理であり、
ニュートン力学は量子力学の近似理論にすぎなかったということになるはずだ。
そして、ニュートン力学を現実に適合する理論として信じていた当時の人々は
ことごとく誤っていたということになる。
しかし、では現在真理として信じられている量子力学はどうなのだろうか?
将来量子力学に代わる理論が登場して現象をより正確に説明し、
量子力学はその近似理論にすぎなかった、
ということが判明することがないことを証明できる人などいないだろう。
この考えでいえば、量子力学が真理であるかどうかは、
未来において量子力学に代わる理論が現れる可能性が残されているかぎり、
宙に浮いたままわからないということになる。
つまりそれは永遠にわからないということだ。

このことは世の中のすべてのことについて言える。
この考えでは、世の中のすべての真理は
それが覆される可能性が残っているかぎり真理かどうかはわからない。
そして覆され得ないことなど存在しないから、
それはすなわち世の中に真理といえるものなどひとつもないということになるだろう。

「そう、厳密な意味で真理であると言えることなど存在しない。」

そうすると世の中で真理や正しいといった言葉を使っている人たちは
ことごとくこれらの言葉を間違って使っているというのか。
誰も正確な意味で真理という言葉を使っていないのに
どうして真理という言葉が機能しているのか。
それは結局、世の中で流通しているような意味での「真理」が
真理という言葉の最終的な意味だからにほかならない。

「ある言説が真理であるとは、それが現実に一致しているということである」
というような意見は、
人々がどのような言説を真理であるとして合意するか、という傾向の問題であって、
真理とはなにかという問題ではないのである。

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アリストテレスの時代にはアリストテレスの時代の真理が、
コペルニクスの時代にはコペルニクスの時代の真理が、
現代には現代の真理があるのであり、
現代の価値観でコペルニクスの時代を測るというのは、
却って現代という時代のみに根ざしたローカルな価値観に縛られていると言える。

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思考倫理

もし倫理が他人のためのものなら、
何かを思ったり考えたりすることには良さ悪さは発生しないし、
ある同じ行動をするときに、
どのような意図でそれをするか、
どのように考えながらその行動をするかということで
その行動の評価が変わることはない。

なぜなら、もし倫理が他人のためのものなら、
倫理的な評価は他人になにを及ぼすかという観点からのみ測られるはずであり、
その評価に対して「思考」という他人からは隠されているものが
影響するはずはないからである。

注意してほしい。
思考が行動に影響を与えることはない、という話をしているのではない。
ここで話題になっているのはあくまで行動が同じだった場合の話である。

したがって、何を考えるかということが倫理的観点から制限されることはない。
どのような下劣で邪悪なことを考えていようとも、
そのこと自体はどんなに厳しい倫理的な観点からも責められることではない。


もし倫理が自分のためのものだったり、
あるいは超越的に決まっているものだと考えるなら、この考えは当てはまらない。

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January 27, 2005

覚え書き3

2003年7月


【真偽とは】
真偽を判別する方法をいくら開発しても、
その方法自体が拠って立っている部分を立証することができない。
このような方法は、明白な真理から明白でない真理を
導いているにすぎないのであって、
些末で込み入った事柄の真偽を判別する助けとなる道具にすぎないのである。

われわれは非常に基幹となる部分の真偽は集団的合意によって決めている。
たとえばあらゆる全称判断(すべての○○は××である)は
論理的に導くことはできないが、
これはそのように主張してもよいという合意に拠って立っているのである。


【科学的説明とは?】
いったい科学的説明というのは事実以上の何かを言っているのだろうか。
事実と同値なのではなく。
我々は「物が落ちる」ということを説明とは思わないのに、
「質量のある物体同士には引き合う力がはたらく」というのは説明だと考える。
しかしこれらは説明のレベルとしてはどちらも同じではないか?
物が落ちることが不思議なら、物体同士に力がはたらくのも不思議である。
物体同士に力がはたらくのが不思議でないなら、物が落ちるのも不思議ではない。


2004年1月


【親殺し】
抽象絵画は具象絵画という親に反抗して生まれてきたものだが、
親が死んで子の存在意義もなくなってしまった。
たとえば、何も表象しないという真っ白なキャンバスは
何かを表象する絵画を殺すためのものだが、
何かを表象する絵画が死んでしまえばそれはただの白い板に過ぎない。

学問でも似たようなことが起きている。
「枠からはみ出すものがある」「枠におさめることはできない」という主張は、
枠にはめるという学問の本質を親として生まれてきたものだが、
「枠からはみ出すものがある」という意見が学問の主流になってしまったら、
その意見はいったい何に対して言われているのだろうか?


2004年11月


【アウディとプラダ】
ファッションにおけるプラダに相当する自動車はアウディだろう。
両者とも表層ではミニマルを装っているが、
これはシンプル&ナチュラルを表現したミニマルではない。
このミニマルは抑制を表現したものであり、
それはすなわち抑制されるものの存在を暗示するためのものである。
抑制されるものとは、表層の禁欲や静寂とは対極にあるもの、
すなわちプラダの場合は肉体であり、アウディの場合は機械のパワーであり、
そして両者に共通するのは精神的な高揚、情熱である。
つまり、アウディとプラダのミニマルは、内に宿るものの逆説的な表現なのだ。
したがって、彼らのミニマルは
たとえば無印良品のミニマルとは根本的に異なるものである。

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January 26, 2005

覚え書き2

2004年5月


【コアラ射殺】
オーストラリア南方のカンガルー島でコアラが3万頭以上に大繁殖、ユーカリを食い尽くすなどの環境破壊を引き起こし、コアラも飢餓状態に陥っているそうだ。これに対し、プロのハンターによって2万頭を射殺する案が検討されているそうだ。
この提案をしているのは、オーストラリア第3の政党、民主党のサンドラ・カンク議員。
「餓死に直面している数千頭のコアラの話をしているのです。たしかにコアラは抱きしめたくなるほど愛らしい。でも現実を直視して、感情を克服する必要があります。わたしはプロのハンターによって、すばやく、きれいに処理することを提案します。 」

このような意見を僕は個人的には好きだ。
このようなことを言う人のほとんどは本当は「抱きしめたくなるほど愛らしい」などとは思っていないが、ごくわずかには本当にそう思っており心の痛みをこらえながらそれ以降の主張をしている人もいるかもしれない。
そんな状況がなんだか好きだ。


2004年6月


【昔のことを覚えている人】
昔のことを覚えている人と覚えていない人の違いは、記憶の強さの違いではない。
どれだけ頻繁に昔のことを思い出すかなのだ。

物事を思い出すときは最後にそれを思い出した内容を思い出す。
たとえば、夢を見たあと起きてしばらくするとその夢の内容は忘れてしまうが、
起きてすぐにその夢の内容を思い出していれば、
しばらく時間がたったあともその夢の内容を思い出せる。
これは夢を直接思い出しているからではなくて、
起きてすぐに思い出した内容を思い出しているからだ。

小さい頃のことをよく覚えている人の場合も同じである。
過去を頻繁に思い出さない人にとって、
小学校の頃のことを思い出すには十数年間のブランクがあるが、
過去を頻繁に思い出す人にとってそれは
以前にそれを思い出した時点からのブランクしかない。


2004年11月


【誤りを変えられない人】
おそらく最も自分の誤りを変えられない人とは、
誰かから抗議されても決して自分の非を認めない人ではなく、
誰かから抗議されるとあっさり自分の非を認めるのに
次のときには何ごともなかったかのように同じことを繰り返す人だろう。


2004年12月


【変な解決策】
問題を忘れることや問題を見ないことが問題の解決策になりえると信じている人がいる。

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覚え書き

2004年4月


【何を誰が決めるのか】
自分のことは自分が決める、他人のことは他人が決める、
複数人のことは個々人が決めたことが同じ権利を持つ。
他人のことも自分で決める、というのはありがちな過ちである。
複数人のことを自分だけで決める、というのもありがちな過ちである。


【夜のイベント】
夜に向かうということが終わりに向かうことであるという連想、
これを打ち破るために夜にイベントを持ってくる。


【新興宗教】
不安のない人間は自分が新興宗教に入らない理由を理解しており、
またしたがってその理由がない人間、すなわち不安な人間が
新興宗教に入り得るのだということも理解している。
したがって新興宗教を否定しない。なぜなら新興宗教とは別種の人間だから。
しかし不安な人間は自分が新興宗教に入らない理由を持っておらず、
したがってまた入る人間がなぜ入るのかということも理解していない。
したがって不安な人間ほど強く新興宗教を嘲笑し否定する。
ひとつには自己正当化のため、ひとつには入る人間が入る理由を理解していないため。


【すべての外】
あるものは、一番下よりさらに下に見えることもあれば、一番上よりさらに上に見えることもある。
そのようなものは、単にその尺度の外であるということだ。


【桜の美しさ】
おそらく桜を美しがる人は、
映画や小説などで一般的に桜がどのように扱われるかという文脈のなかで桜を見ている。
つまり、桜は美しさを喚起するのではなく記憶を喚起しているのであり、
人は桜ではなくその記憶の内容で感動しているのである。


【機会均等】
自分が苦しみに甘んじることを決める権利は自分にある。
しかし、他人が苦しみに甘んじることを決める権利は自分にはない。
だから、たとえば人は誰かにロシアンルーレットを強要する権利はない。
「私は受け入れたのだ。だからあなたも受け入れなさい。」
だが私が決められるのは私が受け入れるかどうかということだけである。


【科学の正しさ】
科学の正しさについて疑念を挿むというのは愚かなことである。
科学は正しさという価値観において究極のものである。科学より正しいものなどない。
ただ我々は正しいからのみ行動するのではないし、
また正しいという価値観にしても科学が唯一の正しさではない、という点から科学が疑われるのである。
科学とは一つの観点であり、他の観点との関係は相対的である。


【芸術作品のよさ】
「この画家は観察力がすぐれている。」では彼はその観察力が評価されたのか?
「この画家は絵がうまい。」では彼はそのうまさが評価されたのか?
どちらも違う。彼はその絵が評価されたのだ。

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April 27, 2004

4月27日

クリスチャンディオールのロゴを作った。
http://homepage2.nifty.com/hoppoh/dior/

携帯用にも。
http://homepage2.nifty.com/hoppoh/dior/i/

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April 26, 2004

4月26日

荒木飛呂彦とジョン・ガリアーノは
まるで同一人物のように同じ精神の持ち主だ。

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April 24, 2004

4月24日

絵画会2を作った。

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