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January 27, 2005

覚え書き3

2003年7月


【真偽とは】
真偽を判別する方法をいくら開発しても、
その方法自体が拠って立っている部分を立証することができない。
このような方法は、明白な真理から明白でない真理を
導いているにすぎないのであって、
些末で込み入った事柄の真偽を判別する助けとなる道具にすぎないのである。

われわれは非常に基幹となる部分の真偽は集団的合意によって決めている。
たとえばあらゆる全称判断(すべての○○は××である)は
論理的に導くことはできないが、
これはそのように主張してもよいという合意に拠って立っているのである。


【科学的説明とは?】
いったい科学的説明というのは事実以上の何かを言っているのだろうか。
事実と同値なのではなく。
我々は「物が落ちる」ということを説明とは思わないのに、
「質量のある物体同士には引き合う力がはたらく」というのは説明だと考える。
しかしこれらは説明のレベルとしてはどちらも同じではないか?
物が落ちることが不思議なら、物体同士に力がはたらくのも不思議である。
物体同士に力がはたらくのが不思議でないなら、物が落ちるのも不思議ではない。


2004年1月


【親殺し】
抽象絵画は具象絵画という親に反抗して生まれてきたものだが、
親が死んで子の存在意義もなくなってしまった。
たとえば、何も表象しないという真っ白なキャンバスは
何かを表象する絵画を殺すためのものだが、
何かを表象する絵画が死んでしまえばそれはただの白い板に過ぎない。

学問でも似たようなことが起きている。
「枠からはみ出すものがある」「枠におさめることはできない」という主張は、
枠にはめるという学問の本質を親として生まれてきたものだが、
「枠からはみ出すものがある」という意見が学問の主流になってしまったら、
その意見はいったい何に対して言われているのだろうか?


2004年11月


【アウディとプラダ】
ファッションにおけるプラダに相当する自動車はアウディだろう。
両者とも表層ではミニマルを装っているが、
これはシンプル&ナチュラルを表現したミニマルではない。
このミニマルは抑制を表現したものであり、
それはすなわち抑制されるものの存在を暗示するためのものである。
抑制されるものとは、表層の禁欲や静寂とは対極にあるもの、
すなわちプラダの場合は肉体であり、アウディの場合は機械のパワーであり、
そして両者に共通するのは精神的な高揚、情熱である。
つまり、アウディとプラダのミニマルは、内に宿るものの逆説的な表現なのだ。
したがって、彼らのミニマルは
たとえば無印良品のミニマルとは根本的に異なるものである。

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January 26, 2005

覚え書き2

2004年5月


【コアラ射殺】
オーストラリア南方のカンガルー島でコアラが3万頭以上に大繁殖、ユーカリを食い尽くすなどの環境破壊を引き起こし、コアラも飢餓状態に陥っているそうだ。これに対し、プロのハンターによって2万頭を射殺する案が検討されているそうだ。
この提案をしているのは、オーストラリア第3の政党、民主党のサンドラ・カンク議員。
「餓死に直面している数千頭のコアラの話をしているのです。たしかにコアラは抱きしめたくなるほど愛らしい。でも現実を直視して、感情を克服する必要があります。わたしはプロのハンターによって、すばやく、きれいに処理することを提案します。 」

このような意見を僕は個人的には好きだ。
このようなことを言う人のほとんどは本当は「抱きしめたくなるほど愛らしい」などとは思っていないが、ごくわずかには本当にそう思っており心の痛みをこらえながらそれ以降の主張をしている人もいるかもしれない。
そんな状況がなんだか好きだ。


2004年6月


【昔のことを覚えている人】
昔のことを覚えている人と覚えていない人の違いは、記憶の強さの違いではない。
どれだけ頻繁に昔のことを思い出すかなのだ。

物事を思い出すときは最後にそれを思い出した内容を思い出す。
たとえば、夢を見たあと起きてしばらくするとその夢の内容は忘れてしまうが、
起きてすぐにその夢の内容を思い出していれば、
しばらく時間がたったあともその夢の内容を思い出せる。
これは夢を直接思い出しているからではなくて、
起きてすぐに思い出した内容を思い出しているからだ。

小さい頃のことをよく覚えている人の場合も同じである。
過去を頻繁に思い出さない人にとって、
小学校の頃のことを思い出すには十数年間のブランクがあるが、
過去を頻繁に思い出す人にとってそれは
以前にそれを思い出した時点からのブランクしかない。


2004年11月


【誤りを変えられない人】
おそらく最も自分の誤りを変えられない人とは、
誰かから抗議されても決して自分の非を認めない人ではなく、
誰かから抗議されるとあっさり自分の非を認めるのに
次のときには何ごともなかったかのように同じことを繰り返す人だろう。


2004年12月


【変な解決策】
問題を忘れることや問題を見ないことが問題の解決策になりえると信じている人がいる。

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覚え書き

2004年4月


【何を誰が決めるのか】
自分のことは自分が決める、他人のことは他人が決める、
複数人のことは個々人が決めたことが同じ権利を持つ。
他人のことも自分で決める、というのはありがちな過ちである。
複数人のことを自分だけで決める、というのもありがちな過ちである。


【夜のイベント】
夜に向かうということが終わりに向かうことであるという連想、
これを打ち破るために夜にイベントを持ってくる。


【新興宗教】
不安のない人間は自分が新興宗教に入らない理由を理解しており、
またしたがってその理由がない人間、すなわち不安な人間が
新興宗教に入り得るのだということも理解している。
したがって新興宗教を否定しない。なぜなら新興宗教とは別種の人間だから。
しかし不安な人間は自分が新興宗教に入らない理由を持っておらず、
したがってまた入る人間がなぜ入るのかということも理解していない。
したがって不安な人間ほど強く新興宗教を嘲笑し否定する。
ひとつには自己正当化のため、ひとつには入る人間が入る理由を理解していないため。


【すべての外】
あるものは、一番下よりさらに下に見えることもあれば、一番上よりさらに上に見えることもある。
そのようなものは、単にその尺度の外であるということだ。


【桜の美しさ】
おそらく桜を美しがる人は、
映画や小説などで一般的に桜がどのように扱われるかという文脈のなかで桜を見ている。
つまり、桜は美しさを喚起するのではなく記憶を喚起しているのであり、
人は桜ではなくその記憶の内容で感動しているのである。


【機会均等】
自分が苦しみに甘んじることを決める権利は自分にある。
しかし、他人が苦しみに甘んじることを決める権利は自分にはない。
だから、たとえば人は誰かにロシアンルーレットを強要する権利はない。
「私は受け入れたのだ。だからあなたも受け入れなさい。」
だが私が決められるのは私が受け入れるかどうかということだけである。


【科学の正しさ】
科学の正しさについて疑念を挿むというのは愚かなことである。
科学は正しさという価値観において究極のものである。科学より正しいものなどない。
ただ我々は正しいからのみ行動するのではないし、
また正しいという価値観にしても科学が唯一の正しさではない、という点から科学が疑われるのである。
科学とは一つの観点であり、他の観点との関係は相対的である。


【芸術作品のよさ】
「この画家は観察力がすぐれている。」では彼はその観察力が評価されたのか?
「この画家は絵がうまい。」では彼はそのうまさが評価されたのか?
どちらも違う。彼はその絵が評価されたのだ。

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